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題名Re: 阿波・讃岐・土佐国〜細川氏の古城の義
コメント 庵主の我侭も〜真っ直らに突き進んでいるも心苦しく、只管に我が故郷の奥の細道の歴史を辿って〜今に世に現を抜かす輩の一人なり。
「土佐 その風土と史話」の県民グラフの編纂と出版は、地元の
歴史を広く広報するに値する高知県の道標(みちしるべ)と。
その歴史年表に細川氏が表されるのは、細川頼益殿が田村庄にその拠点の館(行政の拠点)を開いたのが、天授四年四月(1378年)ですが〜今少し検証の要あり!〜何故ならば、細川氏一族は正慶二年・元弘三年(1333年)閏二月には後醍醐天皇が隠岐の島より離れて〜佐耆の名和氏を頼って政権の奪回に臨む。
同四月には足利高氏(尊氏と)が丹波にて挙兵〜五月には京都の六波羅探題を攻めの軍功によって、鎌倉幕府以来の北条氏は滅びるのです。
その後、後醍醐天皇の建武の新政が発足するのです。
その最中〜細川頼春殿は蔵人に、兄和氏は阿波守に任じられているのです。
建武元年(1334年)には正しく弟、師氏は掃部助に〜従兄弟顕氏は兵部に〜その弟の直俊は帯刀先生の補任されており、足利尊氏は重臣の細川和氏を阿波に〜同じ細川公頼の子・兄弟の内、師氏の弟頼貞の子・細川定禅を讃岐の国に〜土佐国・頼益殿の守護代より、その流れから若干早く〜土佐国には弟の皇海(細川天竺禅門)を阿波と讃岐と土佐の国々の守護として配置されたものと以後の四国を取り巻く歴史背景との符合を鑑みて、庵主は恐れながら洞察しております。南無
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焦点距離 / 35mm換算 5.7 mm /
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フラッシュモード Off, Did not fire
サイズ 1600pixel × 1200pixel (398 kB)
撮影日時 2002:06:21 08:25:34
画像形式 JPEG
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